限界を超える物理学

ミューオン g-2 異常が示唆する新物理:標準模型精密検証の最前線

Tags: 素粒子物理学, 標準模型, 新物理, ミューオン, 精密測定

導入:ミューオン g-2 と標準模型からのずれ

素粒子物理学の標準模型は、電磁力、弱い力、強い力の三つの基本的な相互作用と、それらを媒介する素粒子(光子、Wボソン、Zボソン、グルーオン)、そして物質を構成するフェルミオン(クォークとレプトン)、さらにヒッグスボソンを記述する理論体系です。この標準模型は、これまでの多くの実験結果を驚異的な精度で説明してきました。しかし、重力を含まないこと、ダークマターやダークエネルギーの存在を説明できないことなど、いくつかの未解決問題を抱えています。

このような状況において、標準模型の精密検証は、その限界を探り、未知の物理法則、すなわち「新物理」の手がかりを得る上で非常に重要です。中でも、ミューオンという素粒子の持つ「異常磁気能率」(g-2と表記されます)に関する精密測定は、新物理の存在を強く示唆する可能性のある、現在最も注目されている物理現象の一つです。

背景:ミューオンの異常磁気能率とは

電子やミューオンのような荷電を持った素粒子は、スピンと呼ばれる内部角運動量を持っています。このスピンと関連して、これらの粒子は小さな磁石のように振る舞い、磁場中で特定の挙動を示します。この磁気的な性質の強さを表すのが磁気能率です。ディラックの理論によれば、スピン1/2を持つ素粒子のg因子は正確に2であると予測されます。しかし、素粒子は量子力学的な効果により、周囲の真空中で仮想粒子を生成・消滅させます(量子補正)。この効果により、磁気能率は2からわずかにずれ、このずれが異常磁気能率、すなわち g-2 と呼ばれます。

異常磁気能率は、粒子の内部構造や、相互作用する他の粒子(標準模型の粒子や、もし存在するならば新物理の粒子)の寄与を敏感に反映するため、標準模型の精密検証の非常に強力なプローブとなります。計算は、複雑なファインマン図の合計として行われます。電子の異常磁気能率の測定は、標準模型の予測と極めて高い精度で一致しており、量子電磁力学の正しさを強力に支持しています。しかし、ミューオンは電子より約200倍重いため、より質量の大きい粒子(例えば、重い新物理粒子)の量子補正の寄与が電子の場合よりも大きくなり、新物理の兆候が顕著に現れる可能性があります。

研究内容:最新のミューオン g-2 実験と理論計算

長年にわたり、ミューオンの異常磁気能率の実験は、アメリカのブルックヘブン国立研究所で行われた実験 (BNL E821) が世界の最前線でした。この実験結果は、標準模型の理論予測値から約3.7シグマ(統計的な確からしさを示す単位。通常5シグマで発見とされる)のずれを示しており、新物理の存在を示唆する最初の強力な証拠として注目を集めていました。

このずれをさらに高い精度で検証するため、アメリカのフェルミ国立加速器研究所 (Fermilab) で新たなミューオン g-2 実験 (Muon g-2 Experiment) が開始されました。この実験は、BNLで使用されたものと同じ磁石リングを利用しつつ、検出器や測定手法を改良することで、より高精度な測定を目指しています。

2021年4月、フェルミラボ実験は最初の結果を発表しました。その結果は、ブルックヘブンの結果と非常によく一致しており、両方の結果を合わせた世界平均値は、標準模型の理論予測値から4.2シグマのずれを示すことになりました。これは、誤ってこのずれが偶然生じる確率が約4万分の1以下であることを意味し、非常に強い統計的証拠と言えます。

一方、理論計算の側でも精密化が進んでいます。異常磁気能率の理論計算には、量子電磁力学、弱い力、そして強い力(特にハドロン真空偏極の寄与)からの補正が含まれます。特にハドロン真空偏極の寄与の計算は、量子色力学の低エネルギー領域における非摂動的な性質が関わるため非常に難しく、理論的な不確実性の主要な源となっていました。最近では、格子量子色力学を用いた計算など、理論計算の独立したアプローチからの進展も見られており、理論予測値そのものに対する議論も活発に行われています。理論計算値のわずかな変動が、実験とのずれの統計的有意性に大きな影響を与えるため、理論と実験の両面でのさらなる精密化が求められています。

意義と示唆:新物理への手がかり

ミューオン g-2 の実験値が標準模型の予測値から本当にずれているのだとすれば、これは標準模型の枠を超えた新物理の存在を強く示唆します。どのような新物理がこのずれを説明できるのでしょうか。考えられる候補はいくつかあります。

一つは、超対称性理論です。超対称性理論は、既知の素粒子それぞれに超対称性パートナー粒子が存在すると予言します。これらのパートナー粒子が仮想的に生成・消滅する過程が、ミューオンの異常磁気能率に追加の寄与を与え、実験値とのずれを解消できる可能性があります。

他には、新しい種類のゲージボソン(例えば、Z'ボソン)や、追加のヒッグス粒子、あるいは余剰次元の存在なども、ミューオン g-2 のずれを説明する候補として挙げられています。これらの新粒子や新相互作用がミューオンと相互作用することで、標準模型の予測とは異なる異常磁気能率が生じる可能性があります。

ミューオン g-2 の異常は、素粒子物理学における喫緊の課題であり、現在稼働中または計画中の他の実験、例えば大型ハドロン衝突型加速器 (LHC) で行われている新粒子探索実験や、他の精密測定実験の結果とも比較・整合性を検証する必要があります。ミューオン g-2 で示唆される新物理が、LHCで探索されている新粒子(例:超対称性粒子)と関連している可能性は十分に考えられます。

結論:未解決問題への挑戦

ミューオンの異常磁気能率の精密測定は、素粒子物理学の標準模型が完成された理論ではないことを示唆する、最も有力な証拠の一つを提供しています。フェルミラボでの実験は今後もデータを蓄積し、さらに精度を向上させていく予定です。これにより、現在見られているずれが統計的な変動によるものなのか、それとも真の新物理からの寄与なのかがより明確になることが期待されます。

もしこのずれが確定的な新物理の証拠となれば、それは素粒子物理学における新たな時代の幕開けとなるでしょう。ミューオン g-2 の測定値は、理論家たちに標準模型を超える新しい理論モデルを構築する強い動機を与え、実験家たちには他の実験での新物理探索の方向性を示す重要な手がかりとなります。この小さなミューオンが持つ磁気的な性質の謎の解明は、宇宙の根本的な理解に向けた大きな一歩となる可能性があります。